おかしいと思った。霞流邸でお世話になっていた時に自分たちに見せていた紳士的な彼には似つかわしくないと思った。少なくとも屋敷での霞流は、夜遊びをするような人間には見えなかった。
隠している。
直感した。勘でわかる。
夜遊びなどといったものではなく、たとえば仕事上の付き合いだとか、それなりに説明のできる理由で繁華街に姿を見せていたとも考えられる。だが詩織にはわかった。違う。そうじゃない。
それは勘だ。
普段の印象とはかけ離れた行動をする人間は、何かを隠している。もしくは演じている。
繁華街は広い。縄張りもある。だが、情報を得ようと思えばそれは決して難しい事ではない。
裏のある人間であろうという事には、美鶴より先に気づいていた。
「夏」
美鶴はボソリと呟いた。
「知ってたんだ」
愕然とした思いが胸に広がる。
「どうして、教えてくれなかったの」
混乱する頭のまま、少し責める口調で尋ねる。そんな娘に、母は呆れたように答える。
「教えてどうするのさ」
当然とばかりに口にする。
「アンタには関係の無い話でしょう?」
そう、関係の無い話だ。関係無いと思っていた。
「関係無い事だと思っていたからね」
そこで詩織はゆっくりと身を捩り、娘へ視線を向ける。
「関係があるとは思っていなかったのよ」
母と、目が合った。
「アンタ、霞流さんの事が好きなの?」
「は?」
途端に顔が熱くなる。
「すすすす、好きって」
狼狽する娘に、母は嘆息。
「この期に及んで、何テレてる?」
「な、何って」
カッと頭に血を上らせる相手に詩織は冷たい視線を投げ、左肘を立てて掌に顎を乗せた。
「そうやって純情でいるのはいいけれど、だったらなおの事、霞流さんはやめなさいよね」
「お、お母さんには関係ないでしょうっ」
今さら誤魔化しは無理のようだ。だったら、開き直るしかない。
「これは私の問題なんだから。だいたい、娘の恋愛に口出しするなんて、サイテー」
「あらあら、私はサイテーの親なんでしょう? アンタ、いつも言ってるじゃない」
確かに美鶴はよく口にする。サイテーの母親だ。だらしのない、みっともない親だ。
自分が不幸になったのは母親のせいだ。澤村にフラれたのも、里奈に見下されたのも、周囲に嗤われたのも、みんなみんな、境遇のせいだ。母のせいだ。母の素行が悪いからだ。
「サイテーなんだから、サイテーの行動を取るのは当然でしょう?」
「開き直るワケ?」
「それはアンタでしょう?」
無言で睨み合う。
「お母さんには関係ない」
美鶴はアンパンを袋の上に置く。皿なんて出していない。食べこぼせば袋で受けて、あとでまとめて捨てればいい。
「だいたい、今まで放任してきたくせに、突然口出しするなんて勝手よ」
「まぁ確かにね」
あっさりと認め、ボリボリと右手で足を掻く。
「これまではほとんど口出ししてこなかったんだから、今さらこんな事言うのも変かもしれなし。それに何より霞流家の御曹司と縁が持てれば、アタシにも少ながらず恩恵がまわってくるかもしれないんだから、こちらとしては願ったりなのかもしれないけどさ」
そこでチロッと首を傾げる。
「ただね、今回は母親として、忠告くらいはしておくべきなのかなぁとは思ってね。変なトラブルに巻き込まれるのも、これ以上は御免だし」
「忠告?」
美鶴は立ち上がった。
「忠告って何? 霞流さんに騙されるな。遊ばれるなって事? そんな事は百も承知よ」
「あらあら、威勢がいいわね」
「私だってそんな危険がある事くらいは自覚してる」
「って事は、霞流慎二って人間をある程度理解した上での行動ってワケね」
繁華街をウロついている人間なのだから、好きになればリスクが伴うのは誰にだって想像はできよう。
「まぁ、人間は失敗して成長するものだし、恋愛なんて自由なんだから好きにすればいいとは思うわよ」
「は?」
突然寛大な理解者のような発言をしてくる母に戸惑う。
何なんだ? 母は何が言いたい?
訝しむ相手の視線に、詩織は一度瞳を閉じた。
「ただね、恋愛をするにしたって、じゃあ学生としての生活はどうするのかって聞きたいワケよ」
「学生としての生活?」
「そ。わかってるとは思うけど、アンタは唐渓っていう、それはそれは厳しい名門校に通っているのよねぇ」
そこで薄っすらと瞳を開ける。
「そんな生徒が夜な夜な繁華街をウロついてるなんて事実がバレたら、どうなるのでしょう?」
そうして、美鶴が答える前に続けた。
「私がアンタの素行を知ったように、唐渓の関係者が知ってしまう事だって、十分に考えられるとは思うんだけど」
ぼんやりとはしているが、どことなく呆れたような視線を美鶴へ向ける。
「そしたらどうするの?」
「ど、どうするって」
答える事ができない。
唐渓の関係者に見つかったらただでは済まない事くらい、美鶴にだってわかっている。それこそ自宅謹慎では済まないだろう。
「見つかったら謹慎くらいじゃ済まないって事くらい、私にだって」
「わかっているのにやってるって事?」
詩織は菓子を口に放り込んだ。
「つまり、学校が退学になっても構わないって事?」
「か、構わないってワケじゃ」
「でも、サイアクそうなるだろうとは思ってるんでしょう?」
もう一口を頬張る。
「だったらさ、いっその事、学校なんて辞めれば?」
「え?」
なぜだろう。冷たく突き放されたような気がした。
「辞める?」
「だってさ、学校なんて退学になっても構わないって思ってるんでしょう?」
「だから、構わないってワケじゃない」
「でも、見つかったら仕方がないとは思っている。そんな考えで通ってるんだったら、いっそ辞めた方がいいんじゃない? 通ってる意味もないし、お金もかかるし」
お金。その問題は、美鶴一人ではどうにも解決できない。
「アンタがどうしても通いたいって言うからアタシは構わないって思ってた。でもね、退学になっても構わないって思ってるんなら、いっその事、辞めちゃった方がいいわよ。そんな気構えで通ってたって意味がない。まぁもっとも」
詩織はまるで他人事を話しているかのように大欠伸を挟む。
「何事も、そんな中途半端な心構えじゃ実らないけどね」
向けられた視線。嗤われたような気がした。
中途半端では実らない。学業も、そして、恋も。
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